このブログを始めてから2年経った。
毎週の様に記事を書いていた以前のブログとは違って、2年間で7回しか更新していない。そう思うとなんだかわびしいような気もするが、このブログをはじめた時の心情を思い返すと、「少なくても、必要なことを」だったことに気がつく。
何ごともワンクリック・ワンタップ・ワンスワイプで解決するこのご時世に、誰でもその界隈で一躍有名人になりえるこの時代に、スピードをあげず、『心おどる瞬間』『ちょっとした気づきで何か知った気になれるもの』を量産できない人は需要がなくなってきているのかもしれない。
そんなこと知ったことない、そう思いたかった。けど、なかなか自分も愚かな人間で、人目に付かないものに価値を見出すことが難しくなっていった。そして、それ以前に、『忙しい』の呪縛に取り憑かれていた。
思い返せば、2年前の自分(大学2年生になったばかりの私)は疲弊していた。そもそも疲弊していない自分がいたかどうかがさだかではないのだが、通常は最大で5クラスを取る文系の学生に比べ、文系なのに6クラス(+趣味で取っていた神学のクラス)と塾のバイトを週2で掛け持ちし、なぜかクラブ活動にも参加しようとしていた。
当たり前のように、クラブ活動には参加しなくなり、次の学期には5クラスがマックスだろ、と気がつくのだが、3年生になった暁にはまた6クラス(+神学のクラス)を繰り返している。まあ、2年生の終わりの夏にバイトは辞めて、少し時間にも心にもゆとりができていた。
だがしかし。
私は元来、うるさい人間である。何事がなくてもしゃべりたがるし、なんなら話しながら考えるので、何も話す話題がなくても話し続けていくうちに自然と話すことがいくらでも倍増していく、なんてことが日常的だ。今だって、ちゃんと方向性を決めてベラベラと書き綴らないようにしよう、と思って始めたのに、すでに横道にそれてしまっている。
とにかく何が言いたいのかと言うと、定期的に私は話すなり、書くなりして思考を整理する必要がある。不思議なことに、それらの行為を通して私は欠陥していた客観性を見つけることができる。頭がスッキリするのだ。
そして今、振り返っている。このブログを始めたとき、私は『このブログの最大購読者は私』と言っていた。
つまり、金を払ってでも私が何度でも読みたいものなのかがこのブログの存在意義・そして価値につながるのである。
このブログに移行する前、私はそこそこの読者数・ブロガー仲間がいた『いつか作家になろう界隈』に属していた。毎週土曜日にブログを更新し、自分のメールマガジンを配信し、毎月テーマを決めて、ブログシリーズをせっせと書き、他のブロガー仲間の更新時間に飛んでいき、とりあえず何か足あとを残していた。誰かが自出版でもインディーズレーベルででも取り上げられでもすれば大騒ぎして、心から喜んでる演出をした。(いや、さすがに「演出」とまで言うのは酷かもしれない。そのときの私はたしかにうれしかったのだと思う。)
今でも執筆活動は続けているが、そのうちに気がついてしまったのである。出版されていない作家というのはこの世にごまんといて、その内の一人が執筆アドバイスとやらを書いているのは、中川健一氏の言う、ネタがないスシ屋のようなものだと。
そもそも、何十年も執筆活動を続けていて、本を何冊も出版している人だって、『ビロウな話しで恐縮です』とか、「頭の回転が速い人・頭がいい人は本を書く必要なく言いたいことを言語化できる」と言っているわけである。自分のような「なろう系」の人が他の「なろう系」の人間にできるアドバイスなんかあるもんか、これ以上不毛なことはないだろう、そう思ってしまった。
私は自分を「作家」と名乗るのをやめた。
絡まったネックレスとピアスをほどくように、自分のブロガー自己認識を解体していった。
はずだった。
何も書かなくても、自分を責めない。リアクションできなくても、冷たい人間だと思わない。自分のいないところで話がすすんで行っても、いつの間にか仲間(だと思ってた人)がデビューしてて、インスタのフォロワー数が増えてても、焦らない。自分には自分のペースがある、本当に必要なことだけ、言う。
そんなわけもなく、不安が募っていった。
「私」が「書く」ことに「意味」はあるのだろうか。他の人でなく、私がこの小説を、ブログを、Note を、書くことに解釈の違いが生まれ、価値につながる。そう思いたい。
いつも心に思い浮かぶ聖句がある。伝道者の書の12:12−13だ。
わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。
伝道者の書12:12−- 13
多くの書物を書くのにはきりがない。
学びに没頭すると、からだが疲れる。
結局のところ、
もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。
これが人間にとってすべてである。
前のブログから唯一引き継いだものでもある。本当のところ、私が何を言おうか、言わまいか、他人がそれを読もうが、あるいは自分でなく他人が書いたものが読まれようが、根本的な意味はない。最後に残るのは神の言葉だ。はじめに言葉があり、言葉は最初で最後だ。私が信じているのは、「神は主。そしてイエスは私の救い主。」それ以上でも、それ以下でもない。
長々と書いてしまったが、結局のところ、「振り返る」と言うのは「原点に立ち返る」ことだ。ちょっと何を言っているのか分からなかったみなさま。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。これからもこんな調子でわけわからんことを書いていくつもりなのでそのお心づもりでお願いいたします。
では。

One response to “振り返る。”
[…] I realised I haven’t really talked that I’m a writer on this blog. (Maybe except for that long rant post in Japanese that I was too tired to translate some months […]
LikeLike